2013年1月22日火曜日

そうだったんだ!


沖縄高校野球界の殉死者は大野倫だったか!



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 沖縄水産は、県立でありながら水産高校という特性のため全島から選手を集めることができる。各強豪中学のエースと四番に声をかけ、沖縄水産はオール沖縄と揶揄されていた時期もあった。それでも、栽は勝つために選りすぐりの選手を沖縄水産に集結させ、一時代を築く。84年(昭和59年)から88年まで夏の甲子園5年連続出場、さらに、90年、91年と史上初の2年連続甲子園準優勝と栄華を誇った。栽は、この2年連続甲子園準優勝で沖縄の地位を盤石なものとし、沖縄高校界の天皇として君臨する。
「栽先生といったら、沖縄では雲の上の人ですから球場ですれ違う度に挨拶してたんですけど、まるっきり無視されました。ショックでしたね。」
 他校の選手が帽子を取って挨拶しても、栽は悠然と構えているだけだった。
 2年連続準優勝のため甲子園後は高校選抜のコーチとして帯同する。これは甲子園優勝、準優勝監督だけに与えられる名誉でもある。沖縄に帰って来てからも栽は高校選抜のジャパンの帽子をこれ見よがしに被って指揮をとるなど、我が世の春とばかりに得意満面だった。
 だが、甲子園準優勝という栄光の代償として大野が大きな犠牲を払ったことを世論は見逃さなかった。日刊スポーツでは決勝戦の翌日の紙面に”酷?連投 これでいいのか・・・・・甲子園日程”という大キャッチフレーズで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昔の寮生活とはたいがいそういうものだが、沖縄水産は特に凄い。誰もが寮のことを”刑務所”と言い換えるほど、苦い辛い思いでしか湧いてこない。
 21時まではミーティングでケツバット、飛び蹴りとなんでもし放題。先輩から「階段下にぶら下がれ」と言われ、ぶら下がった足下には画鋲の海。「苦しかったら手をはなしてもいいぞ」。手を離せる訳がない。シゴキというよりもはやイジメに近い。また、寮内では金品の盗難が相次ぎ、不審な下級生はすぐ疑われ、疑いが晴れるまで殴られる。
23時から夜中の2時までは先輩のパシリとマッサージ。そんなのは序の口。たまに変態な先輩がいると、「よし、しゃぶれ!」と号令がかけられ、寸前までいくのだが「すいません」と拒否するとぶん殴られる。また、寮の廊下を意味もなく全裸で歩くものがいたりと、まるでサファリパークのような光景。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 知念直人も栽がじきじきにスカウトした選手。だが入部後すぐに栽の知り合いから「109キロのバーベルを挙げてみろ」と言われ、無理にバーベルを挙げようとして腰を痛めてしまった。それからは3年間まともにプレーできずにいた。
 最後の夏のベンチ入り発表前に知念だけが栽に呼ばれた。
「今からメンバー発表するけど、お前は外れている。中学まで行ってお前を呼んだのにメンバーに入れてあげられなくて申し訳ない」
 栽は頭を下げ謝った。知念は堰(せき)を切ったようにボロボロと涙が出てきた。
 知念は毎年夏が始まると、決まった夢を見る。甲子園の大舞台でホームランを打ったり、キャッチャーで活躍している自分がいる。至福の喜びを感じている時である。だが夢から覚めると一転して現実に引き戻される。辛かった。夢を見て流した嬉し涙が悔し涙へと変わる。
 「周りからは”怪我がなかったら、レギュラーだったよ”と言われるのが嫌だった。もし、生まれ変わったらみんなは二度と沖水の練習はやりたくないというが、自分はまた沖縄水産に行きたい。怪我せずプレーして結果を知りたい」
 キャッチャーとして鳴り物入りで入部したのにすぐの4月上旬に腰を痛め、そこで知念の高校野球は終わったも同然だった。高校野球をまともにやっていない知念こそ、未練、無念さは計り知れない。それでも、腐らず、3年間頑張った姿を栽はしっかり見ていた。
 知念は卒業後、琉球石油に入社。新人研修を受けているとき人事部の担当者が極秘で教えてくれた。「実はな、栽先生がおまえの入社のために”お願いします”
と何度も来ては頭を下げてたんだぞ」。知念は、自分のような補欠のために栽が頭を下げてくれたことを思うと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 沖縄水産野球部には作業班というものがあり、フェンスを作ったり、畑作業をしたり、栽が新しく立てる家の土台作りや造園、植木、ペンキ塗りなど補欠のメンバーを使ってやらせる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
補欠に就職を紹介するのは、設計、土建といった技術職が多かった。いつかは独立して一国一城の主になれという願望もあったはずだ。
 栽に対する思いはレギュラーよりベンチ外のメンバーのほうが、ある意味強いかもしれない。
 「補欠の俺たちのために道筋を作ってくれ、最後まで面倒みてくれたことに心から感謝している」
 背番号が貰えず、スタンドで応援するメンバーたちの総意である。・・・続

以上、抜粋。


面白かった!
皆さんもどうぞ!!






N-KOKK

0 件のコメント: