2012年6月10日日曜日

号外 お葬式



昭和19年(1944年)1月、二男である爺さんは南洋諸島で戰死した。

終戦を経て、我が家の大黒柱は婆さんとなった。
自分の子供3人とタンメーとンメーのほかミークァツも育てたという。

米軍のランドリーに勤務し、ある日、部隊へ向かうトラックが横転し数日間意識不明の事故にもあったらしい。
また、兼箇段に日雇い労務に行き、帰りに大雨となり川が氾濫して帰宅できず、赤子を泣かしてンメーに叱られたとか。

親父が就職した頃に米軍を辞め、親父とお袋が共働きだったせいもあり以後は孫の世話をすることとなる。

昔の人のわりには背が高く、美人であった。

月に2回、ベニヤ通りの”きよ美容室で”パーマをあてていた。だから、婆さんはいつもパーマ液の匂いがしていたのを覚えている。
着るものにも金をかけていた。
留袖の値段を聞いたときはたまげたものであった。
年金がいっぱいあったせいか、健康食品や健康寝具なども買っていた。

お墓は1962年に婆さんが米軍を辞めた退職金で建てたらしい。

我が家では爺さんの戰死後、6月2日に婆さんが天寿を全うするまで葬式をやったことがなかった。
通夜には、あの世の身内に持って行ってくれと、お土産を持たせるご親戚が多数やってきた。

それで、お墓を開けたこともなかったが婆さんが入るんで50年ぶりにあけた。

紫色の立派な”厨子甕”があった。

この甕が婆さんの人となりを示している、と思った。







N-KOKK


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