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足跡 |
1976年 夏 |
Shigeは友人の影響でアコーステックギターの練習を始める。その頃コピーしていたのは「風」「ふきのとう」等。
メキメキとアコーステックテクニック(アルペジオ・スリーフィンガー)を身に付け、友人の前で、小さなコンサートを披露。
Jinはハードロックに興味を持ち、ディープパープル・レッドツェッペリン・ユーライアヒープなどを聴いていた。またJinの好きだった日本のアコースティックミュージシャンは、唯一「吉田たくろう」「古井戸」「泉谷しげる」「遠藤けんじ」だったらしい。
※ホームページ管理者から一言。 このように、まったく感性の違う二人がどのように出会い「究極」結成に至るのか・・。 とても興味がある。 |
1978年 夏 |
沖縄県立浦添高等学校(その後、この高校から有名アーチストが多数デビューしている)在学中にJinとShigeは出逢う。
Jinは、当時ロックグループでキーボードをひいていた。その影響でShigeは様々なジャンルの音楽を聴くようになる。
そしてShigeとJinが一回こっきりのつもりで友人(Kikuti氏とNori氏iのデュオユニット「ONECENT」というグループ)主催のライブに出演したところ結構な盛況で、友人Kikuti氏の奨めもあり、この日を境にグループ名を「究極」と定め正式なデュオユニットを結成する。 |
1979年 春 |
二人してアコースティックアンサンブルのオリジナル曲を次々と生み出していく。
特にこの頃「六月の雨」という楽曲が誕生し、コカコーラ・ボトラーズとTBSが主催する「第三回サウンズウィズコーク・フレッシュサウンズ・コンテスト沖縄大会」にて「六月の雨」のオリジナル曲と、「なんとかなれ(古井戸)」のカヴァー曲のアレンジで堂々優勝を飾る。
更に広島で行われた西日本ブロック大会では2位を獲得し全国大会へ進出。 |
1979年の暑い夏 |
最後、大阪で行われた第三回サウンズウィズコーク・フレッシュサウンズ・コンテスト全国大会で、高校三年生という若年でありながら、グランプリを獲得。(この時はJinの兄であるOsamuがベース&コーラスに加わりトリオで演奏。業界人が言うには、「日本の代表的コンテストにおいて、高校生という年少でグランプリを獲得したことは、まさに快挙というに等しい・・・・・」と。
その後メジャーデビューのスカウトが殺到するが、二人は全てを断り学業に専念。
※ホームページ管理者から・・。 当時この二人は、プロになる気など、さらさらなかったらしい。 |
1980年 11月 |
高校を卒業し、ShigeとJinがたまたま二人で久茂地の川沿いにあった「フォークメイツ」というライブハウスで飛び入りLIVE中、トロピカルギルドの高橋進氏(70年代、喜納昌吉氏を全国に売り出した「火付け役」といって過言ではない)からスカウトを受ける。
そして、久保田麻琴氏(喜納昌吉氏の「ハイサイおじさん」を全国に広めた超有名なアーチスト)のプロデュースで自主制作レコードを発売。
そのころNHKで「音楽野郎たちの再出発」という“究極”の二人を特集したドキュメンタリー番組が放送される。 |
1981年 6月 |
久保田麻琴氏のプロデュースにより、東芝EMIから全国メジャーデビュー。
当時沖縄では〝寺尾聡のルビーの指輪〟をしのいで、三ヶ月間レコード売上NO1となる。 |
1982年 11月 |
フォークブームの衰退と、二人の音楽性の相違から解散。
Shigeはその後沖縄に残った。しかしフォークソングは一切歌わず、ブルースやロックを歌い、ファッション的にもそれらしい風貌にイメージチェンジをした。(Jinのブルースやロック好きの影響をそうとう強く受けたようである。)
一方Jinは上京し中学時代の友人である“Nishi氏”とストレンジブルーというグループを作り活動をする。(Jinもまた、解散後Shigeの影響を受け、その頃より叙情的な楽曲を作り始めている。余談だが、「とにかくこの二人は音楽的にお互いが強く影響しあっていた、だから究極にしか作れない独特のサウンドが生まれたのだ。ほんとうに面白いユニットだった。shigeが生きていたなら、もう一度二人のLIVEを観たかった。」と、ある沖縄の音楽家が最近コメントしていた。) |
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長い長~い。20年の年月が流れる・・・。 |
2002年 夏 |
Shigeが自主制作版CDリリースに向け準備をととのえていた時、たまたまJinが、シンセサイザー・シーケンスプログラマーとして活動していることを知る。そして、Shigeの強い要望もあり、アルバム制作にJinがアレンジャー・プロデュースとして加わることとなる。
またこの時、不思議にもメジャーデビュー当時、「究極」のマネージャーだった高橋進氏とも再会している。 |
2003年 1月 |
Jinの楽曲アレンジと、高橋進氏の絶大な協力により、遂に「究極」バラードのCDが発売となる。
しかし「究極」としての活動はなく、Shigeはソロでライブ活動を精力的に行うも、2008年頃から体調を壊す。 |
2009年 7月 |
Shigeは病気療養中だった。しかし平成19年7月に46歳の若さで急逝、そして「究極」は事実上解散となった。今もなお、沖縄のラジオでは究極の楽曲がよくリクエストされる。 |
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